カゲロウ日記

日々の徒然。

元日の朝の牛乳

近くのタクシー乗り場からトヨタのLand Cを拾い、久々にドバイのZero Gravity(ドバイのビーチバー)へ向かった。クールな入口には黒人のセキュリティが立ち、私は童顔のため年齢確認をされる恒例作業が加わる。一度IDを忘れて生年月日を証明できなかったときは大変だった。横にいた同じ職場で働くフィリピンの女の子が、私の名刺を体格のよい黒人に突き付けて「彼女はうちのマネジャーよ!頭かたいわね、16歳でマネジャーはできないわよ。(あんたバカぁ?)」と惣流・アスカ・ラングレー並に捲し立ててくれて何とか入れたのだった。

ビーチバーに入る度、私はお伽話の中に存在するのかしらと思う。足を踏み入れた瞬間に広がるセンスの良いハウスミュージックにサックスの小気味よいメロディー。プール沿いで肉感のあるセレブ達が色とりどりのかき氷を片手に談笑するさまは、ドミニク・アングルの絵画「トルコ風呂」を彷彿とさせる。ここには富と男性に守られた幸福な女しか存在しない。スルタンのハーレムでも、ハラムでこんな風に女たちが寛いでいたのかしら、と妄想しながら、私は美しい女に囲まれてここにいてごめんなさい、という面持で甘いピニャコラーダをすする。まるで元日の朝の牛乳・・?

「きみはいま、おじさんのふとももの上に乗っているでしょう、そして時々そっと横になって光ったお腹をみせびらかしているだろう、それでいて自分で羞かしいと思ったことがないの。」
「ちっとも羞かしいことなんか、ないわよ、あたい、おじさまが親切にしてくださるから、甘えられるだけ甘えてみたいのよ、元日の朝の牛乳のように、甘いのをあじわっていたいの。」
(室生犀星「蜜のあわれ」『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』講談社文芸文庫 1993.5)

イスラム教徒は勿論ほぼいないのだけど、時折アバヤ風の水着で全身を覆ったイスラム女性をビーチで見かける。私は彼女たちの精神的な在り方に左右されない日常的な苦痛を想像する。とにかく中東は暑いのだ。(中東には3つの季節がある、Hot, Hotter, Hottest。なんてダジャレがあるくらい)。男性の目を一身に受けて隠すイスラム女性と、男性の目を惹く為に露出を惜しまない欧米女性の鮮やかな対比。私の住む世界の日常。

 

目の劣化

「山に登る人が時折後ろ向きに登って筋肉を休ませるように、たまに違う使い方をしないと脳もへとへとになる。」(雪雪/醒めてみれば空耳,2003-1-29)

ドバイは砂漠に建った人工の街。まさに砂上の楼閣にいると、脳だけでなく目や鼻だって劣化する。

イランで久しぶりに、オレンジの耽美な香りと、道端の花の謙虚なかわいらしさと、みつばちの音をひとところに感じて、いつもと違う神経が刺激されて生き返るようだった。

Country of Paradox

次の日のテヘランは生憎の雨だった。

彼女(イラン人の同僚)はとてもFashionableだ。深緑のヒジャブとパンツを合わせ、深緑の石の指輪とよくマッチしている。ネイルはダークレッド。コートと鞄は黒で統一して引き算も完璧。その指輪とっても素敵ね、と言うと、「ありがとう。母がオーダーメードで作ってくれて、スペシャルなプレゼントなの。」とにっこり。完璧。

一つ面談が終わった後、彼女とイランの伝統料理屋が集まる地区へランチへ向かった。ドゥーグと呼ばれる酸味のきいたヨーグルトドリンクを飲む。初めは不思議な味と感じたが、脂身の強いケバブと非常に合う。暫く二人で談笑していると、軍隊のような服を着た店員がやってきて、とても深刻な顔つきで彼女に向かってペルシャ語で何かをつぶやいた。その後、彼女は後ろにずり落ちたヘジャブ(イスラムの女性が髪を隠すためのスカーフ)を両手で戻したので、私はてっきり宗教的な忠告を受けたのかと「髪のこと注意されたの?」と尋ねた。彼女は「anything more?って聞かれただけよ」と可笑しそうにケタケタと笑った。「昔はイラン人ももっと朗らかだったんだけどね」と。

革命以降、謂れのない逮捕を避けようと言動や服装に気を配るうちに、イラン人の顔つきは険しくなったらしい。数日前もPhillip Williamsの『Happy』を踊った動画をyoutubeでアップデートしたイラン人の若者数名が逮捕された。制裁が解除されても、経済は上向いても規制は緩和されないらしい。イランでは未だにfacebookにもtwitterにも規制がかかる。「首相はfacebookとtwitterもアカウントを持って自分の宣伝をしているのに、国民には規制を強いるなんて論理の破綻よね。The Country of Paradox (矛盾の王国)よ。」と呟いた彼女の横顔は凛としていた。

アバヤは雨を弾く。夜はホテル近くのDohan Cafeで1人で夕食。1階は普通のカフェだが、2階では若者が集い、ひっそりとタバコを嗜む。BGMにはMaroon5のShe Will be Lovedのボサノヴァカバーがかかり、Masala Teaは雨を浴びて冷え切った身体に染み渡る。イランにはドバイのようにクラブやバーがない。代わりに若者はなけなしのお金を叩いて高音質のスピーカーを購入し、友人を呼んで朝まで部屋でパーティを開くと、イランの日本人駐在員から聞いた。彼は部屋の隣から週末はどんちゃん騒ぎが聞こえてきて霹靂しているらしい。これもイランのParadoxの1つだろう。どこの国でも、若者は楽しみを見出すのが大得意だ。

初めてのテヘラン

 なかなか仕事をしないコンサルから、またインシャアッラー(神の意のままに)の言葉を聞き電話で喧嘩をする。「前回依頼した調査概要はいつ出てくるのかしら?」「OKOK、インシャアッラー」、といった調子で2週間が過ぎて埒があかないので現地に乗り込んだ。

明日は雨かな? インシャアッラー

彼氏できるかな?インシャアッラー

仕事の締切すぎてるけど・・ インシャアッラー

このマジカルワードには霹靂するが、大阪人がよく使用する「〜〜やで。知らんけど。」の知らんけど、に当たると思えば良いかと考えている。

イラン人の同僚の女性と初対面。電話では何度もやり取りをしていたので漸く、といった面持ち。オフィス近くのイタリアンで打ち合わせ込みの昼食。彼女のヒジャブは時折髪から落ち、優雅にひょいと戻す仕草がとても人間的で好きだ。イラン人でもやっぱりずれ落ちるのね、という安堵感。今日は風邪気味でとても辛い。

 

樹木と彼女

樹木にしか関心のない友人がいる。彼女とは地元が近く、自転車で待ち合わせしてはよく公道を当てもなく走っていたのだが、街路樹を見ては、この樹はあと2年で枯れるよ、とか、この部分は早急に接ぎ木が必要だ、などと占い師顔負けの提言をひとり行っていた。私は彼女のおかげでへぇ、とか、ふぅん、とか、ほお、とか、相槌のバラエティが増えていった。

冬になっても私たちは自転車で畑の連なる田舎道を走り続けた。冬には彼女はグレーのタートルネックに、かさ高いとどめ色のジャケットを羽織り、その上にマフラーを着用するために上半身はパンパンに膨れ上がり、下には民族柄の奇抜なロングスカートにムートンブーツを履いていた。彼女のリュックは中学の時から変わっていない。少し開いたチャックから悲鳴が聞こえている。もちろん彼女に恋人めいたものがいたことは私の知る限り一度もない。また、煙草の煙が体質的に受け付けない厄介な性質もあり、隣に喫煙者が座ると咳込んでえらいことになるので店を途中で出たこともある。

彼女の通う京都大学の研究チームが所有する森に遊びにいったこともあった。森の中で測定を続ける彼女はとてもうれしそうで、近くに座っていた私は、彼女の高い葉を見上げる姿と木漏れ日を思わずフィルムに収めた。つけていたイヤフォンから椎名林檎の幸福論が流れていた。

今年の11月に別の同級生の結婚式で彼女に会う機会があった。控室で彼女の名前を呼ぶと、生きてたんか、と呟いていつもの恨めしそうな目をしたので笑ってしまった。同級生はみな女性になっていた。医者になり同期の医者と結婚するものも、上司と不倫しているものも、悲喜交々の人生を歩んでいた。彼女ひとりが相変わらず、大勢の中で疎まれ、不思議がられ、腫物に触るようにいじられ、でも一定の存在感がある、不思議な存在のままそこにいた。

知り合いの一人が彼女に、ずっと樹の研究してて人生楽しいん、と聞いた。その裏にある好奇心や嫌味を、彼女の純真さは受け付けない。もうすぐ博士課程も終わるから樹木医になろう思てんねん、と真顔で答えた。ずっと結婚とかせえへんの、欲しい回答が出ないから質問は続く。彼女は淡々と答える、ひとりで生きていく準備はできているからね。彼女のいでたちは結婚式という和やかな場に最後までそぐわず、そこで会話は終わった。

幸せそうに笑う花嫁を見ながら、彼女は母親から借りたという窮屈そうな着物姿で拍手した後にあくびをしていた。

スミスとヨーロッパで出会った話

“スミス”。ありきたりなバンド名を持ちながら、最もひねくれたバンドグループ。英国マンチェスターで誕生し1982年―1987年の約6年間活動した。彼らは1980年代のサッチャー時代の英国の不安定さから生まれた、いわばアウトサイダーだった。当時の英国は、労働党と保守党という二大政党制をとっており、上流階級が支持する保守党の指導者サッチャーが打ち出す新自由主義の「弱肉強食の時代」であり、政府の介入を軽減して市場にまかせる政策をとっていた。電話会社、ガス会社の民営化が一つの例である。また、税制度の簡素化により企業と上流階級に有利な税制度が導入され、貧富の差は高まるばかりで、街は、失業者と、酒やドラッグにおぼれる若者であふれた。そんな中誕生したのが、ニュー・ロマンティシズムを始めとする、多様化した音楽。その多様化の中で、スミスは「脱」ロック的ロックの新ジャンルを開拓していった。主流(ロック)に対するアンチとして、女性的スタイルと、労働者階級のための音楽を作り、現在のオルタナ系バンドの先駆者とされる。「カッコいいのはカッコ悪く、カッコ悪いがカッコいい」という、ロック美学の反転を狙った世界観に私は虜になった。

スミスの魅力、それは「アンバランスの持つ魅力」この一言につきると思う。ジョニー・マーのキャッチ―でポップなギターに乗せて、モリッシーの中性的なボーカルが心地よく、時には寂しげに重なる。そこにアンディ・ルークのうねりまくるベースがスパイスとなっている。がなりたてることも、無駄にシャウトすることもなく、彼は淡々と問いかけるように、暗い歌詞を歌う。そのアンバランスさが、スミスをスミスたらしめているのかもしれない。また、歌詞のambiguity(曖昧さ)も彼らの特徴である。彼らのアルバム『The Queen Is Dead』の4曲目“Never Had No One Ever”では、歌詞が数行しかなく、「僕は悪い夢を見ていた 20年7カ月27日続いたのだ」と始まるのだが、聞き手は何のことだかわからない。それを政治と関連づけてもよし、モリッシー自身の話と考えてもよし、聞き手が自分の想像に任せて、時に自分の人生に沿った歌詞解釈ができる所も、多くの社会の敗北者から支持された理由であっただろう。スミスの影響を受けている(と私が感じる)邦楽グループは、スピッツ(特に初期)。草食系の先駆者であるボーカル草野マサムネの甘い声と、ポップなサウンドのせいで、あまり知らない人からは、爽やかロックと言われてしまう。しかし「五千光年の夢を見たいな 後ろ向きのままで」と初期の歌詞は心配になるほど暗く、死や性が暗喩的なテーマになることが多い。そして、歌詞は、ストーリー性に溢れている。スミスとスピッツに共通することは、優しいロックスターという点であり、そのアンバランスさが孤高の個性となっているのである。スミスの歌は、古今問わず若者の心を引きつけてやまない。

私が彼らの歌と本当の意味で出会ったのは、ルーマニア人の友人とヨーロッパでバックパッカーをしていた時だった。バックパッカーが、どこの国に行ってもまずする事といえば、その日の宿探しである。イタリアのベニスで安宿を探して歩きに歩いていた時、ふと古びた二階建ての建物に目をやった。一階のベランダには、様々な色のタオルが、二階の窓からはタバコを吸う若者たちと賑やかな笑い声。そして、窓から流れてきたのが、『The Queen Is Dead』の9曲目に収録されている、”There Is a Light that Never Goes Out”(消えることのない光)だった。

今夜私を連れ出して 

音楽と人であふれている所へ 

若くてエネルギーに満ちた人たちのいる所へ

あなたの車に揺られて 

家にはどうしても帰りたくないの

スミスだ、と思った。「スミスが生きている」とも思った。日本で聞いていた時は、聞いたことはあったがBGMとして聞き流すという方が正しかった。それが、今、はっきりとしたスミスというアイデンティティを持って、耳に入ってきたのだ。

思わず深緑色のドアをたたくと、大家さんがここは若者向けの安宿(いわゆるホステル)であるということを述べたため、友人と転がりこんだ。このホステルには一応「ベニスの魚」という名があった。ベニスフィッシュ。その名の通り、この宿は名もない魚のようにひっそりと(何しろ看板もかかってなかったのだ)、しかし一定の存在感を持って立っていた。それが、スミスのイメージとぴったり重なった。私はそのホステル生活の中で、色んなスミスに出会った。朝の光と共に流れる爽やかなスミス。若者による若者のための夜の宴が盛り上がった後の、ボトルが散乱する中の少し寂しいスミス----。こんなに彼らの音楽が宿に合うのは、旅人たちも一時的なアウトサイダーであり、スミスが衰退するマンチェスターで鬱屈した気持ちを抱きながらつづった詩と重なる部分があるからであろうか。

誰にでも、これを聞くと胸騒ぎがするという曲があると思う。スミスは、そんな魔力を持っている。ホステルにこもるマリファナの匂いと、安いサングリアのボトル、そして満月のイタリアの夜。余分なエネルギーを抱いて闇に駆け出し、お金のない私達は、夜中までベニスの河に足だけを浸して語り合う。自由なベニスフィッシュ。-------------スミスを聞くと今でも旅に出たくなる。モリッシーのけだるい声が、あのホステルで呼んでいるような気がするのだ。

倉敷旅行記

”僕が旅に出る理由は大体100個くらいあって~”
今回の旅は2泊3日。主な目的地は3つ。岡山県倉敷市(大原美術館)、広島県尾道市(千光寺)、尾道からしまなみ海道を自転車で渡り、瀬戸田市(海と平山郁夫美術館と温泉)。


・1日目(8.9.2011)
岡山県のバス会社が運行している両備バスを利用した。学割でなんと難波(大阪)ー倉敷(岡山)往復4000円。朝7時45分発で11時57分倉敷駅西口着。
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なんとも可愛らしい駅構えである。駅で観光マップをもらって、いざ倉敷散策へ。
12時の文字盤が目に入る・・まずは腹ごしらえ。駅から陸橋渡って左手の商店街で見つけた看板 「倉敷名物 ふるいちのぶっかけうどん」  よし、入るか。
http://www.marubu.com/
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店内は地元の常連さんと観光客半々くらい。注文後すぐ出てきて、うどんにもこしがあって美味しかった。

折角なので、商店街を散歩しつつ倉敷美観地区へ向かうことにする。商店街の多くの店の窓に、地元の小学生の夏休みの宿題と思われる習字や絵が貼ってあって、とても和やかな雰囲気。
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倉敷美観地区の本町通りを歩いていると見つけたお店「倉敷クラシカ」。
気になったのが、看板の赤い文字。「店内で手紙が書けます」
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あいにく私が行った月曜日は定休日だったのだが、このお店に関するよいブログをのせておく。
「倉敷クラシカ」の情報
http://mukeifont.exblog.jp/15515039/
どうやらレトロ雑貨屋さんで、お店の隅に木製の机があって、そこからポストカードが出せる模様。次回行く機会があれば是非小さな机に腰を据えて、大切な人に旅のつれづれを書きたいと思う。

倉敷は、とても自転車が似合う町。こじんまりと軒を連ねる家と、乗り古されてぽつんと止まっている自転車を見ながら散歩しているだけで、タイムスリップしたような感覚になる。
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階段の擦り減り方や屋根の歪み具合に、歴史を感じる。

道草を食いながらも、ようやく白壁の美しい倉敷美観地区へ到着。(普通に歩くと、倉敷駅ー美観地区徒歩15分)豊かな水路に恵まれ、江戸時代から商人の町として栄え、今でもその当時の白壁の屋敷や蔵が残っている。
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着いたらまず立ち寄るとよいのが、橋(上写真奥)そばにある白い建物、倉敷観光案内所。船の乗車券(300円)を買うもよし、周辺地図をゲットして探検の概要を決めるもよし。

川沿いを歩いていくと、今日の一番の目的地、大原美術館が見えてきた。

大原美術館は、倉敷生まれ、東京芸術大卒の児島虎次郎がヨーロッパから収集したコレクションが集まる美術館。1300円(大学生は800円)で、大原美術館の3つの館(本館/分館/工芸・東洋館)と児島虎次郎記念館の合計4つの施設に入ることができる。
本館は、モネ、ドガ、ピサロといった印象派が多くシックな印象。分館は現代美術が揃っており、1つ1つの作品が大きくインパクトがある。工芸・東洋館は各国の昔のフリーマーケットを集結させるとこうなるだろうな、という感じ。雑多で、アジアの陶器からアフリカの壺まである。東洋館の2階は冷房がなく、埃っぽくて、時が止まっているような気がした。
児島虎次郎記念館は、大原美術館から5分くらい離れたアイビースクエアという建物の中にある。虎次郎氏は5年間渡欧していたそうで、作風もどこか日本離れしている。目にささる位眩しい色とりどりの花、そのカラフルさに負けじと迫ってくる緑の葉、そして大ぶりな花柄の衣装を纏った少女。どれも主張しあっているのにどこか物悲しい印象も受ける彼の絵。

「児島虎次郎 朝顔」の画像検索結果
児島虎次郎「朝顔」
ここはどこだ。洋風のガーデニングに、浴衣の少女。この違和感に吸い込まれるように、絵の前に立ち止まって見てしまう。大体この少女も違和感の固まりである。まず、”ふつう”の少女はじょうろをわしづかみにして持ったりしない。一見ガサツなこの仕草も、かかとを伸ばして、不安定に体重を柱に任せているあどけなさに、帳消しになる。そして、目が離せなくなる。ちょうど電車の中で少し綺麗な女の子が気になって、読みかけの本を置いてしまうように。

美術館を堪能した後は、美術館隣にあるカフェ「エル・グレコ」で一休み。
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創立者である大原氏が、絵画を観た後に余韻に浸れるカフェをということでこの喫茶店が作られたそう。カフェの名は、大原美術館に貯蔵されている作品の一つ「受胎告知」の作者El Grecoから。ここのアイスコーヒーの後味はなぜか納豆だった。

旅のお供。
ハイウェイ/ くるり